ブランドコピー >> 清朝最後の皇帝が愛用した腕時計
連絡先: [email protected] 担当者: 小澤 正幸

ブランド情報 時間:2023年6月10日

 

清朝最後の皇帝が愛用した腕時計



清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)がかつて所有した腕時計がこのほど香港でオークションにかけられ、620万ドル(約8億5800万円)で落札された。

高値が付いた一因は腕時計自体の希少性にある。出品されたのはスイスの高級時計メーカー、パテック・フィリップの手掛けた 「Reference 96 Quantieme Lune」と呼ばれるモデルで、世界にわずかか8個しか存在しないとみられているものの一つ。しかし競売を担当したフィリップスによると、高額の落札価格は製造から86年が経過するこの時計のたどってきた驚くべき歴史にも由来する。一時はシベリアに持ち込まれたこともあった。溥儀がソ連国内で5年間の捕虜生活を送っていた時期だ。

直径約3センチのこの時計は、アラビア数字を記した文字盤にピンクゴールドの針を使用。表面上部に空いた「月相」の小窓からは、その時々で地球から見える月の形が現れる。内部の機械の一部は1929年にさかのぼるが、時計自体がパテック・フィリップから販売されるのは37年以降だ。同社は複雑な動作をスリムなケースの中に取り入れることで定評がある。

溥儀がこの時計を入手した経緯は分かっていないが、記録によると元々はパリの高級店で売られていたものだ。フィリップスは、歴史文書から溥儀がこれをハバロフスクにあるソ連の収容所に持っていったことが証明できると付け加えた。時計は後に、ゲオルギー・ペルミャコフという人物に贈られた。流暢(りゅうちょう)な中国語を話すペルミャコフは、溥儀の拘留期間中の通訳を務めていた。

溥儀はまだ赤ん坊だった08年に、清朝の皇帝として即位した。その生涯を基に描いた87年の映画「ラストエンペラー」は、米国のアカデミー賞を受賞している。即位から4年足らずで起きた辛亥革命で清朝は倒れ、溥儀は退位を余儀なくされるが、北京の宮廷には引き続き住むことが許された(17年には短期間ながら皇帝に復位した)。

24年、溥儀は北京を逃れ、日本と協力関係を結ぶ。日本は後に溥儀を中国北東部の満州に建設した傀儡(かいらい)国家、満州国の皇帝に据える。第2次世界大戦で日本が敗れると、溥儀はソ連軍に捕らえられ、戦争捕虜となった。フィリップスによれば、溥儀がペルミャコフに時計を贈ったのは50年。その後は中国へ帰還し、戦争犯罪の裁判を受けたという。

報道向け発表によると、フィリップスは3年をかけて時計の歴史を調査。その出所を突き止めた。調査の経緯について、同社でアジアの時計担当トップを務めるトーマス・ペラッツィ氏は声明の中で「前代未聞の調査プロジェクトであり、時計の専門家、歴史家、ジャーナリスト、科学者が世界規模のチームを組んで臨んだ」と述べた。

目録の中で、フィリップスは溥儀のおい、毓嵒(いくがん)の回想録を引用(毓嵒も溥儀と共に投獄されていた)。それによると溥儀は満州国で暮らす間、時計を「毎日」身に着けていたという。目録にはまた、溥儀が当初、時計をおいに贈ったものの、その後ペルミャコフに贈るため返してもらったいう逸話も記されている。

太陰周期

中国へ戻ってから10年近くが経った後、溥儀は赦免され、一民間人として北京で生活。67年に死去した。一方ペルミャコフは、2005年に死去するまで時計を持ち続けた。それから後継者の手に渡った時計は、19年に現在の所有者によりフィリップスに委託された。既にニューヨーク、シンガポール、ロンドン、台北、ジュネーブでの展示を済ませ、香港に戻ってきた時計は、フィリップスの新たなアジア拠点となった同地でオークションにかけられ、5月23日に落札された。

オークションでは時計以外の溥儀の所持品も出品された。その中には義弟の溥傑(ふけつ)が描いたとされる水彩画15点や、やはりペルミャコフに贈った赤い扇子もある。扇子には溥儀自筆の詩が書かれている。

孔子の「論語」と共に落札された溥儀の手記の1冊からは、「これまで目にしたことのない(溥儀の)心の中が垣間見える」と、フィリップスは説明する。2点を合わせた落札価格は12万1500ドルを超えた。

この後、フィリップスは2日間の日程で時計のオークションを開催する予定。出品される240点余りの時計には、1969年のアポロ11号の月面着陸に関連した「オメガ・スピードスター」の限定版など、歴史的な価値を持つものも登場する。この時計はかつて、米航空宇宙局(NASA)の宇宙飛行士として3番目に月面に降り立ったピート・コンラッドに贈られた。

 

 

前のページ: シャネル J12時計にピクセル模様を取り入れた「J12 サイバネティック」を発表